ナオキマンと苫米地さんと芋蔓式なあれこれ。

ナオキマンと苫米地さんの対談動画がすごく面白かった。

全部興味深かったけれど、以下の話について、見終わった後も数日考えていた。

 

平和な世界は、100人の人口がいて、100人が残り99人のために生きている世界と、100人が自分だけの世界に生きている差なんだよ。100人が自分だけの世界に生きてる世界を資本主義というのね。

 

自分の捉え方やスタンス一つで、人々の反応は大いに変わりうるから、確固たる世の中は存在しないと、私は思ってる。

だから、「自分が現実に見出している事象もまた、自分自身のあり方の写し鏡」というのが大前提だ。

 

でも、釈然としないような出来事もまぁ起こるよね。

よく262の法則っていうけど、ほんとなんなんだろう。

明確な悪意があるわけじゃない、でも非協力的な人ってたくさんいる。

たくさんいると感じるのは、私の捉え方のせいなのか、実際にそうなのか、はたまた私が人をダメにしているのか、もうよく分からない。

 

実際、6の人たちがどっちの2につくか問題だよね。

日和見菌のような存在。

 

支配的であるのももちろん違う。

自主性を尊重したいから。

業務上伝えるべきことは伝えるけれど、その人の在り方を制限したくない。

自主的に自分のあり方を決めてほしい。

まぁ、リーダー気質でないと言えばそれまでだけど。

 

かといって、依存させるのも、背負うのも違う。

99人のためという大義名分の元、自分の存在意義を見出して、色々背負い過ぎていやしなかったかなど、色んなことを考えてしまった。

 

99人のために生きている風を装って、実は自分1人のために、良き行動を選んでいる部分も少なからずあったかもしれない。耳が痛いけど。

自分1人のためというよりは、「99人のために生きている自分」が精神安定剤の如く効いているのかもしれない。

この世に自分が存在していていいんだという確証があまりにもなさすぎるから。

無意識に存在意義を確かめられるような行動を、人を変え場所を変え繰り返してきたという恐ろしい話。

「役に立たないと、この世に存在してはいけない」という思い込みが私の闇であり、根本的な問題ということになる。

誰かに必要とされなくなることが恐怖なんだろう。

通りで共依存に陥りやすいわけだ。

 

損得勘定で動く分かりやすい利己的な人ももちろんいるだろうけど、99人のために生きているつもりが、実は自分1人のための行動になっているという人も多そうだ。

ほとんどの人が自分の闇を闇とも思わずに生きていて、無意識に自分のあり方の基盤になっているのだから、怖い話だよね。

精神的に不安定な自覚がある人だけでなく、この世の全ての人がカウンセリングなどを通して、内省するような機会があればいいのにと思う。

 

凹凸の凹でいることをやめない限り、凸な現実がどこまでも追いかけてくるだろうし、真に99人のために生きることすらできないということがよく分かった。

 

 

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