熱いブラックのコーヒーとあったかいシナモンロール

基本寝起きは良い方なのだが、今朝は仕事に行きたくない、何もかももう嫌だ〜!モードに入っていて、どうしようかと思った。

 

ドトールのモーニングを食べる?

いや、違うな〜

じゃあ、スタバ?

うーん、ラテは気分じゃないしな〜。

 

と、いった具合でなかなか気分が上がらない中、スタバのホットコーヒーとシナモンロールのイメージがパッと浮かんだ。

今朝は冬を感じるような寒さだったから、熱いブラックのコーヒーとあったかいシナモンロールなんて、至福だろう。

心がほっこりしたからか、一気に調子づいてきて、前向きな気持ちになった。

 

正直、ブラックのコーヒーも、シナモンロールも普段は全く選ばないメニューだし、すごく食べたかったわけでもないから、不思議だった。

結果的にいつも通り、ラテを頼んだしね。

 

考えて思い浮かべたわけでもない、なんの突拍子もなく出てきたイメージによって、完全に気分が変わるなんて、意味が分からない。

その理解できない感じが、より一層真実味を帯びさせていると思った。

熱いブラックのコーヒーとあったかいシナモンロール

基本寝起きは良い方なのだが、今朝は仕事に行きたくない、何もかももう嫌だ〜!モードに入っていて、どうしようかと思った。

 

ドトールのモーニングを食べる?

いや、違うな〜

じゃあ、スタバ?

うーん、ラテは気分じゃないしな〜。

 

と、いった具合でなかなか気分が上がらない中、スタバのホットコーヒーとシナモンロールのイメージがパッと浮かんだ。

今朝は冬を感じるような寒さだったから、熱いブラックのコーヒーとあったかいシナモンロールなんて、至福だろう。

心がほっこりしたからか、一気に調子づいてきて、前向きな気持ちになった。

 

正直、ブラックのコーヒーも、シナモンロールも普段は全く選ばないメニューだし、すごく食べたかったわけでもないから、不思議だった。

結果的にいつも通り、ラテを頼んだしね。

 

考えて思い浮かべたわけでもない、なんの突拍子もなく出てきたイメージによって、完全に気分が変わるなんて、意味が分からない。

その理解できない感じが、より一層真実味を帯びさせていると思った。

時間こそが貴重品

先日インターホンが鳴ったので、要件を聞いてみると、営業だった。

手が離せないので失礼しますと言っても、引き下がらず、今の時間は留守のお宅が多くて…なのでお願いします。

と言ってきた。

まず他の家が留守かどうかなど私には一切関係ないので、一ミリも同情を誘われることはなかったのだが…

営業なんてざらにあることだし、いちいち目くじらを立てるようなことでもないけれど、少しムッとした。

 

 

また別の日のこと。

妹がLINEでバイトを何にしたらいいか相談してきた。

ある程度しっかりした返信をしたのだけど、間の抜けた返信がすぐに返ってきて、なんだか腹が立った。

 

そして今日。

私よりもパートナーの方が仕事による拘束時間が長いので、その分私が家事を担っている。

自由時間が多いとは言っても、完全なる自分の時間は少なく、雑多なこと、タスクが常にあるような状態だ。

暇だし、できると見込んでいるのだろう。

簡単なことでもポンポン頼んでくるので、もはや仕事と自由時間のオンオフがない。

常にオンモードでいることに疲れを感じた。

 

 

私はとにかく時間が大切で大切でしょうがない。

多くの人がお金の大切さを痛感しているのに対し、時間の受け止め方は人によってかなり分かれるようだ。

そもそも、時間と労力を費やした成果を見える化させたものが、お金だと思うのだが。

 

命が有限である限り、時間も労力も貴重品だ。

目に見えないからこそ、よく理解しておきたいことだ。

 

ゆとりですがなにか観てきた

頭と心が騒がしい。

気分の浮き沈みはほとんどない。

 

思いつくこと、やりたいこと、やった方がいいこと、気になることが多すぎて、ざわざわしている。

若干落ち着かない。

 

前は体型維持や、気分の浮き沈みを減らすために運動しないといけないと思っていたけれど、ここのところは運動が気持ちよくて、ただただやりたいからやっている。

1時間くらいヨガストレッチと筋トレをしてる。

 

運動をすると、気持ちが前向きになるし、気持ちが前向きになると、さらに楽しいことを見つけられるから、結果的に一日がとっても楽しく充実することがほとんどだ。

良い循環を作る第一歩として、運動は最適だった。

 

習慣は楽しさや心地よさを知ることで定着するんだよな〜。

タスクを課すようにして無理やりやっても、苦痛なだけで、やっている意味はもはやないのかもしれない。

自分を虐めるための習慣なんて、私はいらない。

 

でも、理想の自分を追いかけるために、何かしなければいけない、許されないような気分に度々なるんだよな。

 

何かしてないと落ち着かないというか。

何かを成し遂げないとここにいる意味がないというか。

このソワソワの正体はなんなんだろう。

置いていかれたくない。

大丈夫だと思える自分でありたいのかもしれない。

つまるところ、今の自分じゃ満足できないんのだろう。

自己否定が入っているからか、なんだかモヤモヤするし、頭の端でなにかしら考えてしまう。

 

ずーっと何かを考えたり、しきりに話している。

頭がうるさい。

そんな夜だけど、今日は最高に充実した一日を過ごした。

最高だったからこそ、コンフォートゾーンの外にはみ出した今日という日を純粋に受け入れられない自分がどこかにいる。

恒常性が正常に働いているね。

最高を当然のものとして、生きていこうじゃない。

 

現実は自動再生されているYouTubeの動画みたいなものだと思う。

自分の感情は案外、現実との因果関係がないということに気がついてしまったから。

現実で起きた出来事そのものに深い意味はないんじゃないか。

起きた出来事によって呼び起こされた自分の感情や体感が、現実の臨場感を高め、解釈を生み出し、脚色しているように思う。

そうなったら雁字搦めだ。

 

あくまでもサラーッと流れている動画のようなもので、別段深い意味がないと思ったら、一つ一つの出来事に強く注意を向けすぎなくなってきた。

 

終わり

マインドフルに食べて、運動して、化粧して。

New Jeansたちの食事風景を見てみると、一口をじっくり味わって、ゆっくり食事をしているのが分かる。

体型管理のためだろうけれど、食事をより一層堪能しているように見えたから、試しに私も一口一口じっくり味わってみることにした。

いわゆるマインドフルイーティングってやつかな。

 

お腹が空いていると無意識に一口が大きくなっていたし、飲み込むのも早かったし、なんなら口元に運ぶ前に顔の方からもご飯に近寄って行っていた気がする。

意外と、しっかり顔を固定して、手が運んでくるのを待ち続つのが難しかったりする。

フレンチを食べる時みたいに、ゆっくりじっくり味わうと、必要以上に食べられなくなる。

心も身体も満たされるし、綺麗に食べられるし、幸せだ。

 

LE SSERAFIMカズハの筋トレを見ると、身体の端々まで意識を向けているのが分かる。

とにかく一つ一つの動作が丁寧で、美しい。

私も身体の端々まで意識を行き渡らせて、丁寧に運動することにした。

これはマインドフルエクササイズかな。

 

MISAKI MAKEUPさんのメイク動画が好きで、よく見ているのだけど、細かく何回も色を塗り重ねて色付けしていて、工程がとっても丁寧だ。

こんな風に丁寧に優しく化粧をしようと思った。

マインドフルメイクアップ。

 

時間やタスクに追われ、目的達成するためなら工程も気持ちも二の次。

そんなあり方に疲れてきた矢先に、これらのことが目に留まるようになった。

マインドフルネスを意識して、しばらく過ごしてみようと思う。

 

 

 

ナオキマンと苫米地さんと芋蔓式なあれこれ。

ナオキマンと苫米地さんの対談動画がすごく面白かった。

全部興味深かったけれど、以下の話について、見終わった後も数日考えていた。

 

平和な世界は、100人の人口がいて、100人が残り99人のために生きている世界と、100人が自分だけの世界に生きている差なんだよ。100人が自分だけの世界に生きてる世界を資本主義というのね。

 

自分の捉え方やスタンス一つで、人々の反応は大いに変わりうるから、確固たる世の中は存在しないと、私は思ってる。

だから、「自分が現実に見出している事象もまた、自分自身のあり方の写し鏡」というのが大前提だ。

 

でも、釈然としないような出来事もまぁ起こるよね。

よく262の法則っていうけど、ほんとなんなんだろう。

明確な悪意があるわけじゃない、でも非協力的な人ってたくさんいる。

たくさんいると感じるのは、私の捉え方のせいなのか、実際にそうなのか、はたまた私が人をダメにしているのか、もうよく分からない。

 

実際、6の人たちがどっちの2につくか問題だよね。

日和見菌のような存在。

 

支配的であるのももちろん違う。

自主性を尊重したいから。

業務上伝えるべきことは伝えるけれど、その人の在り方を制限したくない。

自主的に自分のあり方を決めてほしい。

まぁ、リーダー気質でないと言えばそれまでだけど。

 

かといって、依存させるのも、背負うのも違う。

99人のためという大義名分の元、自分の存在意義を見出して、色々背負い過ぎていやしなかったかなど、色んなことを考えてしまった。

 

99人のために生きている風を装って、実は自分1人のために、良き行動を選んでいる部分も少なからずあったかもしれない。耳が痛いけど。

自分1人のためというよりは、「99人のために生きている自分」が精神安定剤の如く効いているのかもしれない。

この世に自分が存在していていいんだという確証があまりにもなさすぎるから。

無意識に存在意義を確かめられるような行動を、人を変え場所を変え繰り返してきたという恐ろしい話。

「役に立たないと、この世に存在してはいけない」という思い込みが私の闇であり、根本的な問題ということになる。

誰かに必要とされなくなることが恐怖なんだろう。

通りで共依存に陥りやすいわけだ。

 

損得勘定で動く分かりやすい利己的な人ももちろんいるだろうけど、99人のために生きているつもりが、実は自分1人のための行動になっているという人も多そうだ。

ほとんどの人が自分の闇を闇とも思わずに生きていて、無意識に自分のあり方の基盤になっているのだから、怖い話だよね。

精神的に不安定な自覚がある人だけでなく、この世の全ての人がカウンセリングなどを通して、内省するような機会があればいいのにと思う。

 

凹凸の凹でいることをやめない限り、凸な現実がどこまでも追いかけてくるだろうし、真に99人のために生きることすらできないということがよく分かった。

 

 

youtu.be

心身の健康のための習慣と、アナザーワールド

心と身体の健康は密接に関係してるよね。

メンタル面に余裕がない時は、往々にして運動不足だったりする。

Youtubeを見ながらちょっとB-Lifeのヨガやるとか、たったそれだけでも全く気分ややる気が変わるから不思議だな〜と思う。

 

あとは、意識の深度が日によって違うのだけど、浅瀬にある状態だと、大抵余計な情報を拾いやすいし、揺さぶられやすい。

意識を深いところに連れて行く手段は、没頭したり、集中することにあると思っていて、一番効果的だったのは、勉強だった。

ここ数年で二回ほど、集中的に勉強しなければいけない時期があり、勉強している時の自分のコンディションがすこぶるいいということに、二回目の勉強期間を通して気付いた。

学生時代は、いつも目標達成に追われたり、強いられているように感じてしまって、どうしても勉強が好きになれなかったけれど、最近は心地いい状態でいるために勉強したいと思ったりする。

運動みたいなものかな〜。

習慣化したら、心身のコンディションが格段に良くなるに違いない。

 

そもそも、朝起きてすぐにスマホを触るから、やる気が起きないような気がする。

そんなつもりなくとも、YouTube見始めたり、SNS巡回したり、いつの間にかスマホの世界に連れて行かれる。

スマホの方が私より主導権を握っていたら、その日がなんとなくパッとしないのもうなずける。

主要デバイスをなるべくパソコンしよう。

さほど変わらないように思えるけれど、なぜかスマホとは似ても似つかない関係性を築ける。

主従関係がより健全なんだよな〜。

 

 

最高の聞き手は人間じゃなくて、ノート。

言葉も内容も選ぶ必要がなく、とにかくなんだって気が済むまで書かせてくれる。

そしてなにより、抱え込んでるエネルギーや不満は、真のスッキリの原石だから、愚痴で終わらせるのは勿体なさすぎる。

人間相手に愚痴るだけでは見つからない発見が必ずある。

書いているうちになんだかよく分からないけれど、腑に落ちていく。

 

しかも、至極全うで、筋が通っているように感じていることでさえ、ノートに書き出してみると、想像以上に自分の認知が歪んでいたりするから、驚く。

思考は厄介者だ。

ノートに吐き出して吐き出して、やっと普段はなかなか顔を出してくれない、自分の中枢に触れられる。

自分だと思っている自分も、主張してくる自分も、過去の経験と解釈に基づく思考であることが大半だ。

表層にある自分の意識の大半が思考だから、自分に対して批判的な声が多い。

一番の共感相手は深いところにいる自分なのだけど、その自分は表層の自分(思考)の中に紛れるようにして、いる。

彫刻みたいに表層を彫って、輪郭をはっきりさせる作業こそ、ノートに書き出すことだ。

 

 

 

最後は、アナザーワールドを持つ大切さについて。

仕事だったら仕事、家事だったら家事。

やらないといけないことに追われるようになったら、それらが人生の中心に居座り始めてしまった。

好きで好きで仕方ない、というよりは使命感や責任感が動機だからか、どう頑張ってもご機嫌でいることが難しくなってきた。

不満な現状に心が揺さぶられたり、いちいち些細なことに反応してしまう。

消耗していて、常に疲れているからか、ミスも目立つ。

 

こんな状態が慢性化してきて、いよいよ体調を崩してしまった。

そんな時にふと「ひとつの世界にのめり込みすぎていたな〜」と思った。

 

やるべきことをこなす受動的な世界だけに属していると、日々がつまらないからか、不機嫌な時が増えた。

日常単位ではやるべきことだらけで忙しいのだけど、人生単位ではある意味、暇なのかもしれない。

仕事のこと、職場の人のこと、世間を賑わす話題...

自分の自由時間を削ってまで、本当に考えたいことなのだろうか。

真に心を埋めたいことなのだろうか。

 

心をかき乱すことでいっぱいにするより、ウキウキするようなこと、ハマっていること、やりたいことで満たしたら、エネルギーに満ち溢れてくる。

自分をご機嫌にしてくれる自分だけの世界を、時間を、どれだけ短くてもいいから持っていたら、やらなければならない作業中も、待ち遠しく思ったり、ウキウキするから、単純に気分がいい。

 

小学校中学年くらいまで、読書が大好きで、物語の中にどっぷり没入するのが楽しくて仕方なかった。

例外なくハリポタにドはまりしていたから、学校にいようと、習い事の練習をしていようと、頭の片隅には常にハリポタの世界があった。

現実世界で不愉快なことが起きたとしても、本の続きを読みたい気持ちの方が勝っていたから、さほど引きずらなかった。

不本意な事象に深入りする暇がなかったのだと思う。

 

人間はフォーカスすると、そればっかりに目がいくよね。

意識を分散させてあげるくらいで、きっとちょうどいい。

リラックスして、やりたいことをやろう。

大人になった今こそ、現実世界だけでなく、ウキウキさせてくれる、真に心を埋め尽くしたいようなアナザーワールドを持とうと思った。

 

きっと、心身ともにバランスが取れて、仕事も家事もルンルンでこなせるようになるさ。