心の標識

漠然とした寂しさや孤独感を感じている人は、きっと少なくない。

 

当てもなくテレビをつけたり、YouTubeTikTokをなんとなく見続けてしまったり。

あるいは人と会う予定を入れたり。

 

意識がそれらに分散されている時は、気にならないけど、一度静寂が訪れると孤独感が際立つ。

 

予定のない休みの日。

音のない空間。

誰もいない場所。

 

そんな時にヌッと顔を出す物寂しさ。

 

これまでの私は、寂しさを上手に隠して生きてきた。

自分にバレないように、寂しくないふりをしてきた。

 

ところが、行き着くところまで行ってしまったのか、突然自分に格好つけるのが面倒くさくなってしまった。

というより、自分の本心と真っ向から向き合うことの心地よさを知ったのかもしれない。

 

絶対に覆ることない私の本心が、本当はどんな一瞬一瞬にも存在しているのだけど、余りにもエゴの声が大きすぎて、埋もれてしまう。

社会からはみ出ることがいかに恐ろしいか、エゴが執拗に説き伏せてくるから。

そして、社会的ルールと比較した時に、自分の本心はさほど重要じゃないように思えるから。

 

結果的に、社会的ルールからはみ出た自分の本心は、検討の余地もなく却下されるようになるんだろうね。

 

そんな長年の当たり前が突然ボロッと外れて、自分の本心をとことん知りたくなったのがここ一週間以内の話。

 

面白いことに、破天荒で常識外れも甚だしい自分の本心を、取り敢えずどんどん聞き入れ始めてからというもの、孤独感がみるみる消えていく。

 

人やコンテンツで誤魔化しても、絶対に消えなかった孤独感が今は明らかに感じられない。

 

色んな人が、説き伏せてくるエゴの声と自分の本心の見分け方について教えてくれている今の時代。

並木さんの「こひしたふわよ」

 

こ→心地いい

ひ→惹かれる

し→しっくりくる

た→楽しい

ふ→腑に落ちる

わ→ワクワクする

よ→喜びを感じる

 

という指標がとても分かりやすくて、随分前から分かった気でいたのだけど、まんまとエゴの声に呑まれていた。

 

・おうち時間を長くしたい。

・生活費のことを一切心配せずに暮らしたい。

 

これが私の本心だった。

文字にしてみると平凡な望みに思えるけど、どうしてかこの本心を真っ向から認めるのがずっと怖かった。

そんな風に感じている自分を許せなかったのだと思う。

どうしても認めたくなかった。

 

ちゃんとしていたい、誇れる自分でありたい、頑張らなきゃいけない、怠けることはいけない...

色んなエゴルールに従って、押し殺していたんだろうな〜。

 

私が本心を聞き入れようとしなかっただけで、社会も現実も、別に生き方を私に強いてなんかいなかった。

 

今この瞬間、現実的におうち時間が長くなったわけでも、生活費のことを気にしなくてよくなったわけでもないけれど、気持ちが解放されたからか、特にその願い自体に固執しなくなった。

 

叶っても叶わなくても大丈夫という心境に近いかな?

既に叶った気分って、こういう心境なのかもしれない。

自然にしていても、その事についてぐちゃぐちゃ考えずにいられる感じ。

 

本心は私に気づいて貰おうと、ずっとアピールしてくれていた。

 

心地悪い!

嫌!

しんどい!

 

大切な心の標識だね。

心の素直な感覚にどんどんついて行こうと思う。

嘘つき卒業。

正社員生活を辞めて早2年。

根詰めて働く必要がなくなり、精神的に追い詰められることはほぼなくなった。

自分が自分でいられる日々が戻ってきた。

 

あの頃は毎日苛々、疲労困憊していて、どんどん自分のことが嫌いになっていく一方だった。

性格が悪くなっていっている気がして辛かったなぁ。

 

今は経済的に余裕があるわけじゃないけど、自分が自分でいられる余裕はある。

 

本当はやりたくないけれど、これをやるしかない!やらなきゃいけない!どうにかしなきゃいけない!これをやらないなんて許されない!

 

こんな風に、自分の本心に逆行した選択を繰り返していたから、とにかく疲労困憊し切っていたんだと深く理解した。

 

自分の本心を差し置いて、結局私は何を優先してきたんだろう?

自分の本心以上に大切なものなんてあった?

本心以外のものに従うことで、果たして道が拓けただろうか?

 

頭の中だけで考える理想よりも、リアルな体感が伴う自分の本心に素直に従ってみようと心から思った。

思考が並べる理屈にはもう騙されない気がする。

 

経済的豊かさを天秤にかけ続けたくないというのが、今の本音オブ本音。

きちんと豊かさも受け取りたい。

「豊かさを削って、心の平安を受け取る」というのも、自分が勝手に作り上げた変なルールだと思うからさ。

 

自分の正直な本音に、まずは気づくところから。

気づいた後は「本当はこうしたかったんだね〜」ってただただ受け入れる。

 

それを当分の間続けていこうっと。

具体的なビジョンを持つことが第一歩。

BLACKPINKのジェニが、練習生の頃から歌手になるビジョンをはっきり抱いていたとどこかで話していた。

 

大谷翔平選手のあのチャートも有名だよね。

 

夢とか目標は漠然としたままにせず、具体的に、より身近なビジョンにどんどん細分化していく方が確実に進んでいくんだなぁとここにきて思う。

 

不思議だけど、今以上に若くて可能性に満ちていたはずの子供時代や学生時代の方が、明らかに諦めを強く抱いていた。

人生に対する苦しさだったりね。

理由は謎だけど。

思い当たるような分かりやすい理由は特にないと思う。

環境的には恵まれている方だった。

 

二十代半ばから後半に差し掛かった今、ようやく具体的なビジョンを抱けるようになってきた。

人生に対する諦めや苦しさの濃度が、年齢とともに薄まってきたからだと思う。

 

これなら出来そうだな、という低めのハードルに至るまでビジョンや目標を細分化すると良さそう。

高いハードルのまま、ぼんやりとしたでっかい夢のままにしておかないって大事なのかもね。

 

あとは、夢とかビジョンに、体感を強く伴わせると良いらしい。

実際に叶ったらどんな気分か。

どんな景色が見えるか。

 

これもいかに具体的で現実的か、自分が身近に起こり得ると感じるレベルまで落とし込む必要があるのかも。頭の中だけじゃなくて、体感ベースでも。

 

具体的なビジョンや目標を持つこと × それに伴う体感をリアルに感じること=現実化する

 

ってことなんだろうね。

 

人生を頭の中で想像するような完璧なシナリオに沿って進めようとしている限り、色々難しいのかも。

 

シナリオ通りなんてまず無理だし、想定した完璧がそのまんま完璧だったなんてこともほとんどないからさ。

想定外に進んだ結果、完璧だったことの方が多い。

 

取り敢えず、完璧を目指さずに、目の前にあるできそうなことをただただどんどんやってみることの方がずっと大事に思える。

完璧を目指して今をこなすんじゃなくて。

考えすぎずにどんどん楽しみながら、面白がりながら、今を過ごしていこうかね〜。

 

 

 

熟成中〜

こんにちは〜

 

今月の中旬くらいまでは、職場の人に対する引っかかりをなかなか手放せず、いちいちイライラしていたのだけど、忙しく過ごしていたらいつの間にか取るに足らないような、どうでもいいことになっていた。

目にも留まらない、数ある現実における一つの現象という感じ。

 

結局そんなもんなんだよね〜。

一つ一つの現象に意味を持たせているのは自分。

現象と解釈を切り離せるだけ切り離したい。

 

 

ここ最近はやるべきことに追われて忙しく過ごしているけれど、空いた時間はYouTubeのショートをぼんやり見続けているような時間が多かった。

上の空なのか、ドーパミン中毒的になっているのかよく分からないけれど。

こういう時って、時間を無駄にしているようで自分を否定しがちだけど、それすらもどうでも良くなってきたこの頃。

自分を責めることがもはや面倒くさい。笑

人生を完璧に完璧に進めようとするより、今この瞬間やりたいことをやったほうが単純に楽しい。

 

まぁとはいえ、良いコンディションとは到底言い難いのも事実だけど。

こういう一見しょうもない時間の使い方しかできない時に、何かが熟成されているらしい。

なんか分かるよね。

螺旋階段上にステップアップしていく感じ。

あるいは振り子のように行ったり来たり?

 

昨晩、急に新しい発見があった。

随分と意識の矛先が、現象や自分以外の人々に向いていたな〜という発見。

感覚が突然降りてきた。

 

頭の中でイメージする自分像(エゴ?)とは別に、自分の身体の中心部に「私」が存在していて、その「私」に意識の矛先を集中させると、カチッとはまった感じがした。

直感的にこの状態であることが大事だと思った。

 

常に自分ではないなにか、何者かに意識が分散している。

それが消耗の正体なのかもしれない。

 

カチッとはまった状態で人と接したり、現実に対処する練習をしてみようと思う。

 

身体の感覚や動きに意識を張り巡らせるような運動がカチッ、に役立つんだろうな。

ピラティスのマシントレーニングに通いたい。

年内に始められたら嬉しいな〜。

 

 

 

 

 

ただいま

長ーい人生の中で、今日感じた心の引っ掛かりを先々に持ち越すのはもったいない。

引っかかった些細な出来事をそのままにしておくと、心の一部をそこに置いてけぼりにしてきたような、そんな気持ち悪さを感じる。

 

そんな心の引っかかりも、時間が経てば記憶の底に沈んでいくけれど、その時の生な体感はしっかり身体に刻みつけられているようで、私だけが忘れた気になっているんじゃないかと思う。

 

人生におけるサブイベントをこまめに書きたいものだ。

頑張らない。

なんだっていいさ。

ゆるーくね。

完成度も高くなくていい。

流れるように。

考える間もなく。

 

実際にやってみないと分かんないってか。

何が好きで、何が嫌いか。

自分の勝手な思い込みや予想による判定が大半で、実際のところ、本当は何が好きで、何が嫌いかなんて、 分からない。

不満に思う要素ゼロの状況なんて、ほぼないんじゃないだろうか。

不満を抱いて、より良い未来を夢見る。

そんな自分にも甚だ嫌気がさしてきた。

もはや、自分の気に食わないことを探して回ってるんじゃないか。

 

開き直りと言ってはなんだけど、どうせ文句を垂れる。

どうせ不満を感じるなら、片っ端から色々やってみればいいんじゃないかと思い始めている。

 

どうせ何やったって、期待通りになることなんてないんだから、端からコントロールしようとするのをやめてみようか。

 

無制限に何でも叶う世界だとしたら?

「現実的に...」から始まる話の結末が面白かった試しがない。

この社会に揉まれて、いつの間にか制限や条件の中で最善を選ぶ思考が定着してしまい、本当のところ何が自分の夢で、何が叶ったら真に嬉しいのか、よく分からなくなってしまった。

 

私のこのブログ内だけ、無制限になんでも叶い、手に入る世界という設定にしてみようか。

そうなったら、私は何がしたいだろう?

どんなものが欲しいだろう。

 

お金も時間も場所も何も制限のない、自由な世界を目前にした時、自分が真に望むことが知りたい。

閃いたらどんどん書いていく。

 

おやすみ。