好きなことだけして生きていけたらいいのに、と思う。
けれど、雑多なことややらなきゃいけないことをこなしている時ほど、本音が顔を出す。
本音は意外と、出そうとして出てくるものじゃない。
玉ねぎのように何層にもなっている。
やらなきゃいけないこととやらなきゃいけないことの狭間にぽっと顔を出す。
人間生活を疎かにすると、私自身が遠ざかる。
現実のほうが主導権を握り始め、そして、その中に私は呑まれていく。
前後感覚が曖昧になり、現実に溺れて、やがて私を見失う。
人生と向き合う、その狭間で私に出会えるのかもしれない。
だから、生活という基盤は丁寧に積み重ねていこうと思う。
自分の意識をいかにして他のことに逸してやるかが重要なのかもしれない。
やろうと思って全意識をそこに集中させると、かえってうまく行かない。
俗に言う空回りというやつか。
湧いてこない。無理やり創り上げようとしているような、不自然さの中で、苦しみもがきながら、抽出する。出来上がるものも、気持ちが悪い。
意識的なものの中には、不自然さが充満する。
それが嫌いだ。
野菜を切るなら、野菜に全集中を向ける。
他のことを考えない。
そうやって、一つ一つの行動に意識を置くことで、私が顔を出す。
出会おうとして出会えないのが私だ。
出会おう、出会おうとするのは無意味だ。
そこに意識を向けてもどうにもならない。
放っておく。
人間生活、やりたいこと、やらなきゃいけないこと、なんでもいいけど、行動に意識を宿す。
こうして文章を書いてる時は、思考は働かせないようにしてる。
手が動くままに、ひらめくままに。
何を書くのかは、全部任せてる。
この状態をなんというのかはよくわからない。
バイオリンを弾いているときも似たような意識状態だ。
弾いていることに意識を向けているわけじゃないが、他のことを考えているわけでもない。
これがフロー状態なんだろうか。
フロー状態にはなろうと思ってなれるわけじゃない。
なにか別のことをしていると、ふとひらめく。
ひらめくままに書き始めると、不思議と何かを書いている。
理解はできない。
集中力が切れてきた。
やろうとしてやるようになると、めっぽうつまらないものが出来上がる。
やらせたらいけない。
それでバイオリンを弾けなくなった。
またバイオリンが気持ちよく弾ける日がやってきたら嬉しい。
そう書き終わるやいなや、バイオリンが弾きたいと思った。
そういう願いは叶えてやらないと。
髪を切りたい。
バイオリンを久々に弾きたい。
眠りたい。
そういう願いをせき止めずに、多少面倒と思っても動こう。
余計な損得勘定をする前に。やらない理由を見つける前に。
得られるものがあるか、ないか、判断してしまう前に。
理由なんていらない。
自分の願いを面倒くさがらずに叶えていく。
行動で自分を好きになるとは、そういうことなんじゃないか。